―前田畳製作所の歴史ー

 

昭和の時代から変わらない、三木の風景とともに。

戦争から戻った祖父は、お饅頭屋さんを始めたそうです。神戸や三田のお饅頭屋さんに卸していたと聞いています。その後、親戚に色々あって饅頭屋を辞めて畳屋に。祖父がワラの畳床を製造・販売している時代、大雨で裏山が崩れ工場が全壊。全てが流されてしまいました。1965年だったと聞いています。

大阪でアイスクリームの製造に携わっていた父でしたが、勤めを辞めて畳の仕事に就き、負債返済や再建費用を捻出するために、連日ろくに寝ずに仕事をしていました。自宅を事務所にしていたので、家も仕事も区別がなかったように思い出します。高度成長期の住宅ブームにも乗り、自宅前にあった田を工場に変えながら各地からの注文に対応。住み込みの職人さんも数名いたこともあり、その頃は賑やかで、時には空気が張り詰める環境でした。

 

昭和50年ごろの三木工場周辺の航空写真。建物はすこしずつ変わっていますが、周りの田んぼや山などほとんど今と変わらない風景です。

 

当時の手書きの帳簿。

 

土砂崩れ、火災、地震。幾度となく危機があっても、やっぱりここに。

住み込みの職人さんが独立したり、通いになっていったことで、父が自宅を改築しましたが、その1年後に阪神淡路大震災。隣接しているとはいえ、神戸から離れた三木市まで大きく揺れました。

それまでにも台風で工場の屋根が飛んだり、幾度となく危機がありましたが、大きくしていた倉庫が全焼したことも。その時に仕事に就いていなかった私は燃え残ってくすぶっていたワラの夜の見張り役。そこにやってきた父が「焼き芋食うか?ここで焼いたら旨いぞ」と、笑いながらサツマイモを持ってきたこともありました。どんな心境だったのだろう。もう聞くことはできないですが、本当に強い人でした。父が大工さんたちと一緒になって作った、工場の柱や細工を見ながら、甘い自分を見直すこともあります。私が継いでからも色々ありますが、まだまだ大したことはないなと思います。

先達が遺してくれたものと、何よりもご指名してくださるお客様に支えられながら、なにかしらお返しができますように。

(前田)

 

創業当初から使っているミシン。現役です。

実家の時計は地震当時のまま残しています。